From:リアルインサイト 鳥内浩一 もしあなたが、以下のうち一つでも当てはまることがあれば、このお知らせはとても重要です。
なぜなら、それを手に入れることができる最高の機会が、ここにあるからです。 1988年1月13日、台湾の歴史を変える出来事が起きました。 ある人物が、台湾生まれ(本省人)として初めて台湾の総統となったのです。 その人物が行った六度にわたる憲法改正によって、一滴も血を流すことなく、台湾は民主化を達成しました。 その手腕を評価する声は台湾にとどまらず、「ミスター・デモクラシー」「哲人政治家」と世界中から絶賛されています。 日本においても、政財界をはじめ各方面から高い尊敬を集め、 「現存するリーダーの中で、最も人格と見識が高い人物」 などと評価する声も数多く、事実、2015年7月にその人物が来日し、衆議院第一議員会館で講演を行った際には、下村博文元文部科学大臣が「空前絶後」と述べたほどの反響がありました。なんとその人物の講演を聴くために、あのダライ・ラマ法王が講演した時の約2.5倍もの国会議員約300名が一堂に会したのです。 その人物とは・・・
2000年任期満了に伴い総統を退任。
2007年第一回後藤新平賞受賞。 『台湾の主張』(PHP研究所 第8回山本七平賞受賞) をはじめ、近著には『「武士道」解題-ノーブレス・オブリージュとは』(小学館文庫 2006年)・『李登輝実録-台湾民主化への蒋経国との対話』(産経新聞出版 2008年)・『最高指導者の条件』(PHP研究所 2008年)・『李登輝より日本へ贈る言葉』(ウェッジ 2014年)・『新・台湾の主張』(PHP研究所 2015年)・『指導者とは何か』 (PHP文庫 2016年)・『熱誠憂国 日本人に伝えたいこと』 (毎日新聞出版 2016年) ほか著書多数。 李登輝氏が成し遂げた偉業についてあまりご存知ない方は、氏がなぜこれほどまでに評価を集めるのか、「生ける伝説」とまで言われるのか、不思議に思われるかもしれません。 それを理解するためには、まず台湾の歴史を知る必要があります。 ![]() ご覧の通り、台湾は、1624年にオランダに支配されて以来、数百年にわたって、明鄭、清、日本、そして中国国民党という外来政権によって支配されていました。 つまり、台湾の歴史とは、他国によって支配され続けた歴史だったのです。 李登輝氏は、こうした外来政権による支配を終焉させ、台湾を民主化し、数百年に及ぶ外国の支配から、台湾を台湾人の手に取り戻しました。 すなわち、 台湾人の数百年来の悲願を達成させた ことこそが、李登輝氏が成し遂げた偉業の偉業たる所以ですが、その達成までには、想像を絶する困難がありました。 その最大の困難とは、「中国の法統」を断ち切ることにありました。 李登輝氏の1988年の総統就任時、台湾を統治していたのは、蒋介石に始まった国民党政権です。 憲法は凍結され、世界最長とされる38年間もの戒厳体制が敷かれ、国防・治安などの権限を総統に極度に集中させ、独裁政治が行われ、住民による民主化要求は、国家反逆罪として弾圧されました。 令状なしでの逮捕が認められたため、深刻な人権侵害をもたらしただけでなく、国会の選挙も凍結され、中国大陸で選出された議員が半世紀近くも居座り続け、彼らのことを「万年議員」、国民大会や立法院、監察院は「万年国会」と呼ばれていたのです。 なぜそんなことになったのか。 それは、一言で言えば、国民党政権・中華民国政府が「中国の正統政府」を自任し、中国共産党が統治する中国大陸への反攻を目指していたため、 台湾を国民党の「軍事基地」とみなしていた からです。 それを正当化するために、彼らは台湾が中華民国領土の一部に過ぎず、中華民国の国会を台湾住民のみによる投票で改選することはできないと主張し、選挙を凍結。 人権や民主主義を蹂躙する一方で、形式的には中華民国憲法が施行され続けていることを喧伝します(実質的には、後に触れる動員戡乱時期臨時条款により、憲法の効力も凍結)。 これによって生まれた「万年国会」と中華民国憲法による“正統性”と「法統」と呼び、民主化要求を「法統」を犯す「法理独立」だと決め付け、弾圧したのです。 そして、李登輝氏の総統就任時にも、民主改革を求める凄まじい民意の声にも関わらず、国民党の保守勢力は、「法統」で約束された地位を手放そうとせず、民主改革を求める声に耳を傾けようとはしませんでした。 その問題を解決するため、李登輝氏は、「その病巣はただ一つ」と見抜いた憲法の改正に着手します。その最大の目玉は、「動員攪乱時期臨時条款」を廃止することにありました。 これは、台湾と中国は内戦状態(国共内戦)にあるとして、憲法を停止して国家総動員体制を敷くことを可能にしたもので、独裁政治を可能にし、人権が蹂躙されたのも、選挙が凍結され、大陸出身の「万年議員」「万年国会」が権力の上に居座り続けたのも、これが癌だったのです。 これを廃止するため、自身が第8代総統になるための選挙で支持を依頼した600人の議員全員を説得し、引退させ、1991年、「万年議員」は全員退職し、「万年国会」問題は解決しました。 さらに94年7月、台湾省・台北市・高雄市での首長選挙を決定し、同年12月に選挙を実施。 国民党内では依然として党こそ国であるという「党国」体制がまかり通っていて、個人の下に権力やあらゆる利益を集中させたがる状況にあった悪しき伝統を、100人の党員が反対する中で打ち絶ちました。 さらに総統直接選挙の実現に向けて行動。 国民党が提出した間接選挙ではなく、直接選挙を主張し、国民大会において、第9期総統より直接選挙を実施することを賛成多数で決定させます。 同時に総統の「1期4年・連続2期」の制限を付し独裁政権の発生を防止する規定を定め、1996年、初めての総統直接選挙において54.0%の得票率で当選し、 台湾史上初の民選総統として第9期総統に就任 したのです。 いかがでしょうか?李登輝氏の卓越したリーダーシップ、高い精神性の一端が、お分かり頂けましたでしょうか? 李登輝氏の偉業とは、このように周囲の猛烈な抵抗に遭いながら、「法統」を錦の御旗として掲げる国民党の主席として、決して甘んずることなく、台湾人の数百年来にわたる悲願を成し遂げたことにあります。 その根底にあったのは、他でもない、台湾人としての強いアイデンティティでした。 そして李登輝氏は、台湾が台湾であるために、さらにもう一歩踏み込んで、台湾を中国の一部とみなす「一つの中国」という思想から台湾を解放するという大仕事に取り組んでいきます。 国民党が自らを正当化する拠り所とした「法統」とは、国民党が生み出したものなどではなく、中国が5千年間もの間続けてきた閉鎖的な帝王政体である、と李登輝氏は言います。 したがって、本当の意味で、台湾を台湾人の手に取り戻すために、 「中国の歴史は、黄帝以降の夏・殷・周から明、清に至るまで、脈々と同じ流れを受け継いできた大中華帝国体制であり、その「一つの中国」という概念の外にある者は、即ち化外の民であり東方と北方の蛮族の国とみなす」 思想を持つもう一つの中国、すなわち、 中国共産党による束縛から台湾を解放 する必要があったのです。 それを国際社会に対して表明したのが、99年に「ドイツの声」の取材に対して氏が語った次の言葉でした。 ![]() 当然この発言に対して中国共産党は猛反発をし、「武力解放」や軍事威圧さえちらつかせましたが、 台湾を台湾人の手に取り戻すために、どんな相手に対しても、怯むことなく本質を貫いたのです。 そろそろ、李登輝氏が「ミスター・デモクラシー」「哲人政治家」とも称され、世界中から絶賛される理由がお分かり頂けたでしょうか。 今を生きる人物の中で世界最高のリーダー と言っても、決して過言ではないでしょう。 その世界最高のリーダーが発した、注目すべき発言があります。 私はね、二二歳まで日本人だったんですよ、岩里政男という名前でね。 李登輝 小林よしのり(2003)李登輝学校の教え pp75
つまり李登輝氏は、「自らを作ったのは日本の教育だ」と言っているのです。 私の想像ですが、おそらく私の日本人的な部分を評価したのではないでしょうか。私にはどうも日本人的なところがあるらしく、そこが蒋経国の気に入ったようです。責任感が強いし、嘘はつかない。おべっかも使わない。だから国民党員でもなく、国民党等とは無関係だった私を登用したのです。 李登輝(2014)李登輝より日本へ贈る言葉 pp68,69
それでは、李登輝氏が受けた日本の教育とは、一体何だったのでしょうか。 それを学ぶ上で最も近道なのは、1895年から1945年までの50年間の日本統治時代について学ぶことです。 なぜなら、この時代の日本人によって李登輝氏は日本の教育を受け、この時代の日本人に色濃く影響を受けているからです。 そして、それを学ぶことは、あなたをリーダーシップのさらなる高みへと誘うばかりでなく、戦後教育の中で日本人が失ってしまった本物の日本精神を学ぶことにも繋がります。 さらには、なぜ台湾がこれほどまでに親日なのかも理解できるようになるでしょう。 李登輝氏は、「この50年間をいかに評価すべきなのか?」という問いに対して、このように述べています。 この問いにはひと言で結論が出る。日本は台湾を近代化させた。日本統治によって、台湾は伝統的な農業社会から、近代社会に変貌したのである。 李登輝(2015)新・台湾の主張 pp20
それでは50年間の日本統治は、どのように台湾を近代化させたのでしょうか?
経済政策では、殖産局長に農業経済学および植民地経済学者の新渡戸稲造を迎え、さとうきび栽培などの生産を1902年の50万トンから1905年の130万トンへと約2.5倍に激増。
台湾総督としての8年間に、西部縦貫鉄道、基隆港築港、通貨・度量衡整備、統計制度確立、台北医学校設立、予防注射強制、下水道整備、衛生状態改善、土地所有の権利確定などの諸政策を断行しました。 当時、日本の国家予算が約2億2,000万円という中で、約6,000万円という膨大な事業資金を台湾統治に投入しました。
こうした生活環境や医療環境の改善などにより、1905年の年間死亡者数が千人当たり341人だったものが、1912年には、20人以下へと激減。
さらに当時の台湾ではアヘン中毒者が蔓延していましたが、彼の「阿片漸禁策」により、1900年には16万9千人いたアヘン常習者は1917年には6万2千人に、1928年には2万6千人にまで減少し、その4年後の1932年には500人以下にまで減り、1945年のアヘン根絶を行うきっかけを作りました。 その結果、台湾人の平均寿命は30歳前後から、終戦時には60歳前後へと驚異的な伸びを見せ、「一世紀にも等しい」と言われるほどの発展を台湾に遂げさせる活躍をしました。 李登輝氏は、後藤新平の貢献について「今日の台湾は、後藤新平が築いた基礎の上にある」と述べ、「後藤新平は、私にとって偉大な精神的導きの師である」と語っています。
彼の意見書を基に制定された「糖業奨励規則」によってサトウキビ農家には補助金を支給し、品種改良や灌漑施設の整備など、耕作意欲を刺激する政策が進められました。
同時に、機械化された大規模な製糖工場の建設を促し、従来の手作業を主とした製糖作業の機械化を推進し、農業と工業の両面から発展させました。 この結果、台湾の製糖業は、1902年の生産高50万トンからわずか3年後の1905年には約2.5倍130万トンに激増。その前後を含めると、1900年に3万トンだった産糖は、40年後の1940年には160万トンとなり、台湾は世界有数の生産地となったのです。 李登輝氏は、高校時代に新渡戸稲造の著作に出会い、「新渡戸稲造という日本人の偉大さに心底感服したことを覚えています」と述べています。 そして、新渡戸の後を追いかけて農業経済学への道を進んだ氏は、さらに「武士道」に感銘を受け、京都大学へ進学。その後の波乱万丈の道のりの中でも、新渡戸の言葉や精神が自らを鼓舞してきたと話し、「後藤新平は指導者としての先生。新渡戸稲造は人生の先生」と公言しています。
八田は、この嘉南平野に安定した水供給をする灌漑施設を建設することで、この地を台湾の穀倉地帯にできると考え、「嘉南平野開発計画書」を作り上げました。
予算は総額4200万円、これは当時の台湾総督府の年間予算の三分の一以上に及ぶ規模でした。 計画の第一にあった烏山頭ダムは、満水時の貯水量1億5千万トン。黒部ダムの75%に相当し、土石を水圧で固めながら築造するという当時世界最新のセミ・ハイドロリック・フィル工法をわが国で初めて採用。 ダム湖に水を引くために、直径8メートル55センチ、長さ4キロメートルのトンネルを掘り、毎秒50トンの水を流し込む。それは、当時最大のトンネルだった東海道線の熱海の丹那トンネルよりも15センチ大きい規模でした。 給排水路の全長は1万6千㎞、万里の長城の6倍、地球を半周する長さで、日本最大の愛知用水の13倍にも及び、さらに給水門、水路橋、鉄道橋など、200以上もの構造物を作るというその壮大な計画の実現によって、水田は30倍に増加し、ダム完成から7年後の1937年には生産額は工事前の11倍に達し、サトウキビ類は4倍となり、その業績は台湾の中学校の『社会2・農業の発展』に詳しく記載されています。
教育制度の確立に関しては、日本人と台湾人の区別を少なく教育を受けられるようにするという、当時革命的だった「台湾教育令」を制度化しました。
これが後の台湾の発展に大きな力となり、台北師範学校、台南師範学校をはじめ多くの学校を開設し、李登輝氏をはじめ、数多くの台湾リーダーが誕生するきっかけとなりました。 さらに注目に値するのは、1945年時点で50年間日本領であった台湾の就学率が92パーセントに達していたことです。400年間もオランダの植民地であったインドネシアの就学率がわずか3パーセントだったことを考えると、明石の功績には目を見張るものがあります。 そのほかにも司法制度の改革、嘉南銀行の設立、台北高等商業学校の設立、道路や鉄道など交通機関の整備、森林保護の促進など精力的に事業を進めました。 没後、彼の墓を建てるために彼を尊敬してやまない台湾人からたちまち多額の寄付金が寄せられ、「軍人中、皇族方を除いては明石のような墓を持ったものはない」と言われるほど壮大な200坪もある墓が作られました(現在は別の場所に移されています)。
李登輝という世界最高のリーダーは、いかにして生まれたのか。 日本の台湾統治は、あくまでも日本の国益のために行ったものです。それを忘れてはなりません。 そしてそれが、台湾の人々の今の親日感情に繋がっていることは、言うまでもありません。
今でこそ、このような失礼極まりない行いは聞かなくなりましたが、台湾の人々に感謝を示せているかどうか、恩返しができているかどうかという意味では非常に疑問です。 いっぽう、日台友好は、日本の安全保障という意味でも極めて重要な意味合いを持ちます。 原油の99.7%を海外に依存し、穀物・豆類などの食料も輸入に頼っている日本の物資輸送の99%を海運が担っている中で、シーレーン(海上通商路)は日本の生命線です。 そして、この日本のシーレーンにおいて最も重要な位置にあるのが、台湾と沖縄なのです。 実際に台湾の地を訪れ、偉大な先人の遺した歴史に触れることは、
最高の機会になる、と信じ、それを手にして頂くために、2015年からこれまで5回にわたり、「日台友好歴史探訪ツアー」と題した3泊4日のツアーを実施してきました。 ![]()
この企画には、各業界の第一線で活躍されているトップリーダーの方々、のべ300名以上に、日本全国のみならず海外からもご参加頂いているのですが、今まで何度もセミナーや講演会を企画してきた中でも、非常に満足度の高いものになりました。 ![]() このように、びっしりと書かれた熱いご感想の数々です。 ![]() このように極めて満足度の高い、非常に意義深い企画ではありますが、実は、 前回を最後に、もう開催はしないつもりでした 正直なところ、このツアーの価値は、体験した人には分かっても、体験していない人にはなかなか理解できない部分が非常に多いからです。 実際、国交を断絶していることもあり、台湾人の方々が口を揃えて「片思い」というように、日本人は、驚くほど台湾のことを知りません。 なぜこれほど台湾が親日なのか、日本の先人が台湾に何を残したのか。 それを知らないことは罪悪であると言えるほどの重要な事実を、ツアー募集のたびに、様々な角度からお伝えしてきましたが、毎回、言葉で間接的に伝えることの難しさを感じるばかりでした。 結果として、前回は、過去最低の参加者数でした。 さすがにこの人数を割り込むことはありませんでしたが、事業として行うにはなかなか厳しいのが実情です。前回を最後に、もう開催はしない予定でした。 しかし、実際に開催し、再び台湾に渡って現地の方々と接し、後に述べる事実、このままだと手遅れになってしまうという危機感を改めて感じたこと、参加された方々から口々に「これからも続けてほしい」と熱く語られ、その意義を改めて噛み締め、たとえ事業としては厳しくとも、続けることを決意しました。 そして今年も開催するのが、このツアーです。 ![]()
![]() 午前中、成田・名古屋・関空・福岡いずれか最寄りの空港から空路、台北へ向かいます。
最高速度は時速300キロで、在来線では4時間かかっていた台北(台北市)-左営(高雄市)間の約345キロを最速96分で結び、台湾の交通環境、ライフスタイルを一変したとさえ言われています。 さらに、スケジュールは遅れない、車内も綺麗にされているなど、日本の新幹線さながらの運転が行われ、2011年に中国で発生した脱線事故に際しては、台湾高鉄の担当者は取材メディアに対して、「日本と同じシステムを採用したので、あのような事故はありえない」と語ったといいます。
日本の新幹線技術の輸出第1号となったこの鉄道に乗り、日台友好の絆を感じながら、台南までの旅をお楽しみください。 ◆ 特別ゲスト講演 日勝生加賀屋 元支配人 德光重人氏 台南へ到着後、バスでホテルへ移動し、チェックイン後にこのツアーでの学びをさらに深められる特別ゲストによる講演をご用意しています。 そのゲストとは、、、あの有名旅館「加賀屋」を台湾に開業させた立役者德光重人氏です。
八田技師夫妻を慕い台湾と友好の会 世話人(金沢) 台湾在住20年以上の德光氏は、並々ならぬ苦労の末に「日勝生加賀屋」をオープンさせました。 そんな德光氏の講演タイトルは、「天命を知り使命として人事を尽くす」。 ふとした縁から、勤めていた会社での事業立ち上げのために上陸した台湾。 仕事上の数々の困難に立ち向かう一方で、德光氏は、日本人とは何かを考えさせられる感動の体験、日本と台湾の歴史を深く知るきっかけになる驚きの経験、死生観を持つに至る師との出会い、同じ金沢出身で、台湾で神と崇められる八田與一の没後60年慰霊祭での出会いを経て、自らの天命を知るに至ります。 きっかけは、SARSの影響による会社の台湾撤退と帰国命令。 その道のりは、決して平坦ではなく、むしろ絶体絶命の危機の連続でした。 今までのお話でお分かりいただけたと思いますが、德光氏は、李登輝氏を育てた日本の偉人の卓越したリーダーシップと日本精神の源流に直に触れ、自分の中に流れるDNA、「日本人とは何か」という本質に目覚め、卓越した成果を上げることができた先駆者なのです。 すなわち、德光氏は、今回あなたがこのツアーで得られる価値を先に経験した先駆者なのです。 そんな德光氏の講演は、リーダーシップについて、海外での事業成功について、海外での「おもてなし」文化浸透について、李登輝氏について、日台友好の歴史について、日本精神についてあなたにさらなる学びを与えてくれることでしょう。経営者・リーダー必聴の講演です。 講演時間は60分で、以下のような内容をお話し頂く予定ですが、皆様に最高の体験をご提供できるよう、最後まで内容を精査します。
そして德光氏にも、あなたから直接質問することができます。あなたが「ここを知りたい」と思う内容を、ぜひ直接德光氏にぶつけ、その貴重なアドバイスを持ち帰ってください。
ここでできる人脈の価値も、計り知れません。 以前、参加された方からは、「何より今回出会った同じ想いを共有できる人たちと出会えたことが一番の財産となった」というご感想も数多く頂きました。 ぜひこの機会を活用し、最高の体験・学びに加えて、ここで最高の仲間も見つけてください。 ![]()
2日目の最初は、台湾で日本軍人が神と祀られている場所へと行きます。そこは、、、
それは、大東亜戦争末期の昭和19年、米軍による大規模な空襲が開始された時まで遡ります。 数で勝る米軍に、日本軍は苦戦を強いられ、杉浦の零戦も米軍からの被弾を受けて尾翼から出火し機体爆発が迫る危機に見舞われました。杉浦の眼下には村の集落が広がりそのまま墜落すれば村民に大きな被害が出てしまう状況で、機体が集落への墜落し、大火災になることを避けようと、機首を上げ、上昇態勢をとりました。結局、零戦は空中爆発し、杉浦は直前に落下傘で脱出したものの米軍機の機銃掃射を浴び戦死していました。 杉浦は、零戦機の墜落によってすぐに落下傘で脱出すれば命が助かるのにもかかわらず、村民たちに被害がもたらされないよう集落を戦火から救うために、自分の命を犠牲にして、自ら郊外まで飛行機を飛ばし、他人の命と自分の命の二者択一を迫られた時、自分の命を顧みず、迷うことなく他人の命を選んだのです。 そして、話はこれで終わりではありません。戦後、村に白い服を着た幽霊が現れるようになりその幽霊が、杉浦少尉の英霊だったのです。村人たちは相談し、村民全員一致の総意で、零戦の墜落地に5坪ほどの祠を建て、村民たちを守ってくれた杉浦に、台湾人の最高の謝恩の表し方として、そこに祠をたて、永久に恩徳を顕彰したいと考えたのです。 その後、杉浦少尉が、村人たちを守ってくれたおかげで、自分たちは生き残り、子孫繁栄ができる。祠は、霊験あらたかなため、信徒がどんどん増え、1993年には、多くの村人の協力で、この祠は、敷地50坪のきらびやかな廟に建て替えられ、今もなお、台湾人の人々の手によって、民間で維持運営されているのです。 この廟の左右には、日本の国旗である日の丸と、台湾の旗が掲げられ、鎮台には旭日旗がかけられ、 ここを長年管理している曹芳さんという方がいますが、「杉浦少尉は命をかけ村を守った。
ここを訪れる時、あなたは、その壮大な敷地、ダムの美しさ、ここから見える絶景と、八田與一の功績に驚かれることでしょう。そして、台湾で最も愛される日本人の偉業に、心から感動することでしょう。 当時世界最新の工法を採用して建築されたこのダムを、「烏山頭ダム水利システム」として世界遺産に登録しようとする活動もあるそうです。
八田家以外にも、ダム建設のために家族で住んでいた技師の宿舎も復元されています。
烏山頭ダム、八田與一記念公園の双方に記念館があり、八田の業績に関する資料や私物が展示され、日本語の解説も流れております。
また、台湾でも放映された「パッテンライ!」(八田が来た)という映画のDVDもあり、台湾人にとって、八田がどれだけ重要な人物であったかも感じることができます。
こうした中、森川巡査は、村の治安改善に尽力したのみならず、識字率が非常に低かった村において、何よりも先に教育の普及が大切と、私費を投じて、日本から教材を取り寄せ、教師を雇い、寺子屋を開き、時には、自らも教鞭を取ることもあったそうです。 衛生改善にも地道な指導を行いました。また、農地の改良や農耕技術の改善についても、自ら鍬を持って率先垂範で指導し、よく働く者には、自費で農機具を進呈しました。 森川巡査の人生は思いも寄らぬ形で、幕を閉じました。森川巡査が副瀬村に赴任した翌年から、台湾南部に大干ばつが発生。その翌年はほとんど雨も降らず、干ばつがいよいよ激しさを増す中、総督府は新たに漁業税を課したのです。 ただでさえ大干ばつで農業に大きな影響を与えていたところに、漁業にまで課税されては、 納税は国民の義務だが、村びとたちの貧苦を誰よりも知っている森川巡査は、上層部に上申することを約束、台南州東石支庁まで出向き、必死に村民の実情を訴えます。ところが、当時の東石支庁長は激怒し、森川巡査が村民を扇動しているものとして、逆に戒告処分に処してしまったのです。 村に戻った森川巡査は、村民に、沈痛な面持ちで陳情が届かなかったこと、それどころか誤解されて戒告処分になり、同僚や村民にまで迷惑をかけることになってしまったと声震わせながら伝え、 そして2日後。「疑われては弁解の術もない。覚悟する。」と森川巡査が拳銃で自らの喉を打ち砕いて自決したのです。享年42歳。森川巡査を父のごとく慕い、敬愛していた村びとたちは、変わり果てた姿の巡査にしがみつき号泣しました。 話はここで終わりません。そこから約20年の歳月が経過します。1923年に副瀬村の隣村で脳炎が発生し、副瀬村のある村民の夢枕に、制服姿の警察官が現れました。そして、「生水や生ものに注意せよ」と告げて消え去ったそうです。 この村民はすぐに村にこのことを伝え、脳炎の被害を防ぐことができました。村民たちは、自分たちの親や祖父母に心から尽くしてくれた森川巡査が、死後も自分たちを護ってくれていることに心から感謝しました。 そして、直ちに協議して森川巡査のご神体を作ることにし、富安宮に「義愛公」と呼んでお祀りし、 富安宮に行けば、まるで本人に会ったことがあるかのように遺徳を語ってくれる人で溢れていて、 自分の生き方を考えされされること間違いないでしょう。 その後は、台湾新幹線で台北へと向かいホテルへチェックインをします。夕食は希望者の方のみ、オプショナルツアーを開催します。台湾の美味しい料理と台湾の雰囲気を存分に味わえるツアーを開催する予定ですので、是非ともこちらもご参加下さい。
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この銅像には、あるエピソードがありますが、内容については参加まで取っておいてください。感動すること間違いなしです。
そしてあなたは、さらに台湾の人々に感謝することになるでしょう。
◆ 特別ゲスト講演 日台の絆を知り尽くした 文筆家 片倉佳史氏 3日目の午後は、このツアーでの学びをさらに深められる、二人の特別ゲストによる講演をご用意しています。 その一人目のゲストとは、台湾在住の文筆家 片倉佳史氏です。
台湾の文化、歴史、魅力を語らせたら片倉氏の右に出る方はいません。日本・台湾を飛び回りながら年間40回の講演をこなし、執筆活動を精力的に行っている。その理由とは 「日本人は一方的に日本が台湾に何をしたかばかり見てしまうが、私はそれがおかしいと思っていて、台湾と接触することによって、日本人は何を学んだかという視点を常に持っていたい。 あとは、台湾を勉強することで、見えてくる日本というものがあるんです。同じく、台湾の人は日本を勉強してくれることによって、台湾とは何なのか、気づくことがある。お互いの情報交換をどんどんしていけたらいい」 「台湾の人は日本統治時代の50年に何を考えていて、どう生きていたかを取材して、それを日本人に伝えることが一番大切だ」 とおっしゃっています。 今回は日本人が絶対に知らない、メディアでも放映されない本当の台湾、台湾人について語っていただきます。 ◆ 特別ゲスト講演 李登輝氏の精神を後世に残す 台湾総督府国策顧問 黄崑虎氏 二人目のゲストは、李登輝氏と1971年から48年にわたって交流があり、「台湾 李登輝友の会」の総会長でもある黄崑虎氏です。
李登輝氏が党首辞任し、国民党を脱退した2002年に、「李登輝氏の精神をなくしてはならない」と台湾の李登輝友の会を設立。自らが総会長として活動を開始し、さらに2008年には、「台湾之友会」を設立し、台湾人の団結を深化させるために活動を開始されました。 こういったご活躍の背景には「自身の家庭が裕福になったのは烏山頭ダムの存在である」「台湾の発展は、日本統治時代にその基礎がある。」と発言し、ご自身のみならず台湾の発展に日本精神の重要性を深く理解されていらっしゃいます。 他にも、1998年から旧暦の中秋節前後の土曜日に自宅前広場で音楽会を開催し、李登輝元総統、陳水扁元総統、蔡英文総統、頼清徳前行政院院長などが毎年出席されていらっしゃいます。 このように李登輝氏と関係が非常に深い黄崑虎氏をお招きし、下記の内容でお話頂く予定ですが、皆様に最高の体験をご提供できるよう、最後まで内容を精査します。
そして黄崑虎氏に30分間、あなたから直接質問することができます。黄崑虎氏にはここでしか話せない本音をお話しして頂く予定ですので、あなたが「ここを知りたい」と思う内容を、ぜひ黄崑虎氏にぶつけ、その貴重なアドバイスを持ち帰ってください。
幾多の苦難を乗り越え、数々の改革を成し遂げたリーダーシップの本質と李登輝氏を支えた日本の教育、日本精神の根幹とは何かという内容もお話し頂く予定ですが、皆様に最高の体験をご提供できるよう、最後まで内容を精査します。 今を生きる世界最高のリーダー・李登輝台湾元総統について学ぶことができる、貴重な機会です。 ![]()
4日目の午前中は、まず初めに行く場所は、、、
六氏先生は、いつ襲われてもおかしくない状況の中で「身に武器を持つことなく民衆の中に入っていかなければ、教育というものは出来るものではない。もし我々が襲われて、殉ずることがあっても、台湾子弟に日本国民としての精神を具体的に見せることができる」という言葉を残し、その場に居座ることを決めました。 その後、1896年の元旦にある事件が起こりました。それは、半日ゲリラが起き、地元の人たちは教師たちに避難を勧めたのですが、「死して余栄あり、実に死に甲斐あり」との覚悟を示して6人の先生たちは約100名のゲリラに襲われ、惨殺されました。 彼らの台湾の教育に賭ける犠牲精神は「芝山巌精神」と言われ、人々の間で語り継がれるようになり、芝山巌は「台湾教育の聖地」と称されています。 この「芝山巌精神」は当時の台湾教育者に多くの影響を与え、終戦時には識字率が92.5%に登り、後に台湾が経済発展をする基礎となりました。 ここでは、この六氏先生の教育に関して、語り継いでいる台湾人の方がいらっしゃいました。 その方が、この動画の唐さんです。
六氏先生の功績と感謝の気持ちを語り継ぐ唐さん この動画でお話をされている唐さんは、「実のことを教えているのは自分だけ」という使命感に駆られ、来られる限りここに足を運び、六氏先生の真実を語り継いでいました。 昔は毎日のように姿を現しては、六氏先生の真実の話を語り継いでおられましたが、ご高齢のため、もはや会うことはできません。 しかし、この芝山巌に行けば、襟元を正され、気が引き締まり、日本人としての生き方を再び見つめ直すことになるでしょう。そして、この場所で六氏先生の真実を語り継いでくれた唐さんに心から感謝することになるでしょう。
台湾に骨をうずめる覚悟で台湾総督の任務に着いていたその決心が、短期間に数々の偉業を成し遂げさせるも、明石は、在任中、帰省中の福岡にて病気で亡くなります。
この遺言通り明石が埋葬されたのが、現在林森公園となっている、日本人墓地でした。
台湾人による多額の寄付もあり、「軍人で皇族を除いて明石氏のような墓を持ったものはない」といわれるほど立派な墓が建てられたそうです。
にもかかわらず、戦後、この墓地はたちまち大陸から逃れてきた国民党の下級兵士や難民の居住地と化し、バラックが乱立して50年近く放置されたままでした。明石を祀った鳥居は小屋の柱に利用されていたそうです。 平成6年(1994年)、陳水扁台北市長(後、総統)が彼らを立ち退きさせ、この地は公園として整備されました。明石の墓も、遺族らが見守る中で発掘され、現在その遺骸は三芝郷のキリスト教共同墓地に埋葬されています。 現在は公園の中の鳥居の前に三ヶ国語で書かれた碑文が建てられ、明石元二郎の統治があったことが紹介されているのみですが、実はこの鳥居がこの場所に戻し、碑文を建てるにあたっても台湾人による大きな尽力がありました。それについてはぜひ現地でお確かめください。
友愛グループでは、台湾で美しい日本語を守って後世へ伝えていこうと毎月一度、第3土曜日に行っています。 メンバーの大部分は、日本語教育を受けた台湾のご年配の方々で構成されており、2014年3月現在、会員数は132名、そのうち日本人が45名、平均年齢は76歳です。 日本人留学生や、在台日本人、あるいは日本からの旅行者が友愛グループの存在を聞き知り、オブザーバーとして3~4人、多い時は5~6人も参加されています。 日本語によるスピーチ発表会も毎月行なっており、俳句、短歌、川柳や日本語の「懐かしい昔の歌」を歌ったりしているそうです。 あなたは、不思議に思うかもしれません。「なぜ台湾にこのような会が存在するのか?」と。 もちろんそこには背景がありますが、ここでは伏せておきます。 ぜひここで、台湾人に今も残る日本を肌で感じてください。 せっかくのこの機会にメンバーの方に聞きたいこともあると思いますので、一緒に会食できるようにいたしました。ぜひ日本の統治時代のお話を生で聞いたり、東日本大震災での支援に対する感謝の気持ちなどを伝えてください。
この会食は、前回のツアーの中でも、非常に反響が大きかった内容となります。
その後は、お土産店へ立ち寄り、午後のフライトで帰国、成田・名古屋・関空・福岡いずれかの空港に夜到着、解散となります。 *当日の混雑状況や不測の事態により、止むを得ず、見学場所などが変更になる場合がございます。予めご了承下さい。
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以上が今回のスケジュールになりますが、この4日間で、あなたは、以下のものを得ることができます。
これを手にすることは、あなたの人生にどれだけの価値をもたらすでしょうか? 今回の価格設定には、正直、かなり悩みました。 すでにご説明したツアーの全日程を組み、催行することは、当然それなりの費用もかかります。 実際、この企画について初めて発表した時、「最低50万円位にはすべき企画でしょ」というご意見を頂く方もいらっしゃいました。 ここに参加することで、あなたは人生のステージを二段階も三段階も引き上げられるだけでなく、他の人が一生かけても手に入らないかもしれない、かけがえのない財産を得ることができます。 それは文字通り、あなたの人生を変える最高の機会になるでしょう。 本当はその位の価格が妥当であると考えています。 実際、前回参加者の皆様に行ったアンケートでは、「今回のセミナーツアーはどれくらいの価値があったと思いますか?」という質問に対し、平均447,555円という回答でした。 しかも正直にお伝えすると、このときは李登輝元総統がご登壇できなかったときのアンケートの結果でした。そしてこの金額は年々上がっています。 そして今回は、今までの5回よりも内容を充実し、さらに価値を高めてお届けします。 正直、運営上も、参加費を高額にして、ごく限られた方だけにご案内した方が、楽です。 しかし、 少しでも多くの方に李登輝氏の本物のリーダーシップを学んで頂くため、 そうはしませんでした。 さんざん悩んだ挙句、今回のツアー参加費の定価は248,000円に決定しました。 ・李登輝台湾元総統 秘書 早川友久氏の講演&質疑応答セッション が全て含まれます。(航空券代・ホテル代のみ別途(10万円前後)) さらに、12月27日までにお申し込み頂ければ218,000円でご参加頂けます。 先述しましたが、正直、この価格では、50名集まっても赤字です。しかも人件費は計算に入れていません。 今回、自社の利益を削ってまでこの価格を提示する理由は、ただ一つです。 これは、お金を理由に諦めるには、あまりにもったいない機会だからです。 この参加費が、「高い」と思われる方もいらっしゃるかもしれません。 その気持ちも確かに分かります。
もし無料だったら、行きたいですか? 答えがYESなら、4日間の時間を投資する価値は感じていらっしゃるということだと思います。 もしあなたが今、この参加費を高いと感じていたとして、
あなたの人生と、どちらが大切ですか? この4日間は、文字通り、あなたの人生を変える最高の機会になるでしょう。 ここであなたは自分の人生のステージを二段階も三段階も引き上げ、他の人が一生かけても手に入れられない、かけがえのない財産を得ることができるのです。 そしてそれは、一生涯にわたってあなたの人生を支えてくれる財産です。 多くの人が、「目の前のこと」に囚われてしまうあまり、人生にとって本当に大切なものを逃してしまいます。いや、逃していることにすら気づきません。 そして1年後も、3年後も、5年後も、10年後も、今と変わらない人生に甘んじてしまいます。 もしあなたが人生のステージを上げたいと本気でお思いなら、リーダーとして卓越した成果を上げたいと本気でお思いなら、ありきたりな人生で終わりたくないと本気でお思いなら、ぜひ「目の前のこと」ではなく、その先の人生に目を向けてください。 新しいリーダーシップの地平にたどり着いた時、見える世界が180度変わります。 是非それを手にしてください。こんなチャンスは二度とありません。
![]() 今回、李登輝氏の教えを永遠に残して頂くため、今回ツアーにご参加頂いた方に、特別なプレゼントをご用意しています。 ![]() ![]() 今回ご参加の皆様全員に、2015年11月に収録した李登輝台湾元総統の講演と、今回の早川友久氏、片倉佳史氏と黃崑虎氏、日勝生加賀屋 德光元支配人による貴重な講演を全て収録したDVDをプレゼントします。 おそらく一生に一度のこの講演DVDを永久保存版の記念品とされるもよし、何度も復習してその本物のリーダーシップと本物の日本精神をあなたの中に落とし込むもよし、最大限にご活用ください。 このDVDが今後販売されることはありません。今回ご参加頂いた方のみが手にすることのできる特別な記念品です。
![]() ![]() さらに、あなたがこのツアーでの記憶を永遠の記録とするため、早川氏・片倉氏・黃崑虎氏・日勝生加賀屋 德光元支配人との記念写真(集合写真)も撮影し、全員にプレゼントいたします。 一生に一度の思い出として、是非いつまでも大切に保管してください。
![]() ![]() もしあなたが、台湾の日本統治時代に日本人が成し遂げた偉業や歴史についてあまり詳しくない、李登輝台湾元総統の成し遂げた偉業についてあまり詳しくない、という理由で参加を迷われているなら、ご安心ください。
これら3つの特典も全て含めて、価格は変わりません。 李登輝総統をよく知る方々から直接学ぶことができる、おそらくは一生に一回の機会ですので、ぜひ今すぐお申し込み下さい。
ご参考までに、昨年のツアーに参加された方のご感想をご紹介します。 ![]() 得難い出会いと経験に感謝いたします。
![]() 友愛グループの方のお話を聞けたことが良かったです。
![]() 反日の国、中国と韓国に囲まれた日本にあって、新日の台湾の人の心がどうあるのかを知りたくてこのツアーに参加した。 李登輝元総統と、德光支配人の話を聞いて、自分の認識が全く違っていることを知りました。それは、台湾人は中国人ではないという事です。それと八田與市という偉大な先人がいたことも知りました。児玉源太郎や後藤新平のことは、本を読んだりして知っていましたが、ダム建設の一端を担う者にとって、恥ずかしい限りです。
![]() 今回素晴らしい機会をありがとうございました。この会に参加することができて良かったと思っています。
![]() 李登輝先生の講話で、「自国を守るのは軍隊しか存在しないのに、なぜ、日本は国軍を持とうとしないのか?そのためには憲法改正は当たり前ではないか!東日本大震災で台湾は200億円の義捐金を送ったのに献花を菅直人はさせなかった。恥ずかしい事であり、中国に阿る勇気のない対応だった。その後で、安倍総理が台湾は大切な友人と言ってくれたことに感動した」という部分はとても示唆に富むものでありました。
![]() 日本が過去に行った行動がいまの結果、台湾が豊かに暮らしていることを見てよかったと思いました。
![]() 六氏先生(芝山巌)に行った際に偶然に出会った82歳の老人には感動した。
![]() 台湾の歴史に深くふれることが出来、大変勉強になりました。真実の歴史を知り、改めて日本人として誇りを強く感じました。この真の歴史を日本人は、もっと知るべきだと思うし、日台国交の樹立を心から願います。
![]() 李登輝元総統のお話が今回参加させて頂いた目的でしたが、八田與一氏の鳥山頭ダム、総統府、美しい日本語を守る会の皆様との会食など、どれも本当に素晴らしい体験でした。
![]() 今回の旅は、これまでとは違うものとなりました。台湾を知り、自分とはなにか?リーダーとして
どうありたくて、何が使命かをみつめる旅で、何度も胸に込みあげてくるものがありました。
![]() 台湾がとても新日だとわかりましたし、統治50年の間に日本がいかにインフラ・教育に台湾の発展に役に立って台湾国民から喜ばれたのかよくわかりました。
![]() 李登輝先生の講演を聞き、歴史の知らないところの内容が色々と分かり大変良かったです。
![]() 今回のツアーに参加でき、スタッフ一同に感謝します。
![]() 台湾の人が親日ということはネットや書籍で知っていましたが、台湾の人の生の声を聞きたいとずっと思っていました。李登輝総統のリーダー・指導者としての「ゆるぎない信仰」が必要という言葉が特に心に残りました。
![]() この旅は親しく尊敬申し上げる李登輝先生の熱意とご実行のお話を伺うことができて、これまで以上に大きな感動を頂きました。
1回目のツアー参加者からのメッセージ
2回目のツアー参加者からのメッセージ
3回目のツアー参加者からのメッセージ
4回目のツアー参加者からのメッセージ
5回目のツアー参加者からのメッセージ
ぜひここにご参加して、あなたの人生を変えてください。 ![]()
追伸:手遅れにならないうちに すでにお伝えしたように、台湾の親日感情によって、われわれ現代の日本人は、感謝してもしきれないほど大きな恩恵を受けています。 そして、今日の親日台湾があるのは、かつて台湾に生きた日本の先人が残した偉業と、生き証人としてその歴史を語り継いでくれた台湾人の方々のご尽力の賜物です。 しかし、ここであなたは、不思議には思われないでしょうか? もちろん、台湾で日本の先人が残した業績は、現代人が想像もつかないほど偉大なものです。 しかし、かつての日本は、台湾と同じことを、朝鮮半島の統治においても行っていました。 もちろん、日本統治以前に遡る歴史的背景の違いや、「民族性」が理由に挙げられる場合もありますが、それ以上に、日本人が去った後に台湾人の方々を待ち受けていた、とても壮絶で、凄惨な、悲しい歴史が色濃く影響しています。 それは、すでに述べた通り、数多くの人々が虐殺され、人権が蹂躙され、世界最長とされる38年間もの間戒厳体制が敷かれ、国民党批判などしようものなら、日本統治時代のことなど口にしようものなら、逮捕・投獄・拷問され、殺害されかねない、暗黒の日々でした。 二・二八事件で国民党政府による残虐な殺戮によって殺害された台湾人は、2週間で2万8千人にも及びます。その後に続く戒厳令の間、国民党政府が摘発した政治事件は約3万件、逮捕・投獄された者は14万人、そのうち95%は冤罪と言われています。 国民党政府によって不当逮捕・監禁された上、公正な裁判もされず、生命までも奪われた受難者の数は16,132人にも及びます。そのうち1,226人が処刑されたといいます。 その壮絶な過去を乗り越えて、戦後70年以上経った今に至るまで、日本の先人の歴史を語り継いでくれ、感謝してもしきれない恩恵をわれわれに与えてくれた台湾人の方々に、これまで日本人は何をしてきたか。今の日本人は何をしているか。 台湾の方々は、その日本人のことをどんな風に思っているか。 それを過去のツアーで目の当たりにした瞬間を収録した映像が、下記です。 この方は、今回のツアーでも訪れる芝山巌で、六氏先生や日本統治時代の歴史について語り継いでいた台湾人・唐さんですが、この唐さんと同じように、 日本人が去った後の暗黒時代を迎えた台湾人の方々、日本に国交を断絶された時の台湾人の方々、日本が解放した東南アジアの国々が戦後次々に独立を勝ち取っていく一方、独立国家として認められないままの台湾人の方々、中国共産党の顔色を伺って台湾をないがしろにする日本政府を見る時の台湾人の方々に共通する感情が、 日本に棄てられた という感情です。 想像を絶するほど過酷な過去を乗り越えて、こんなにやるせない思いを抱きながらも、ずっと日本のことを愛してくれ、先人の歴史を守り続けてくれている台湾人の方々が背負っている過去を、私達日本人は、あまりに軽く考えているのではないでしょうか。 日本人が去った後の台湾の歴史を学ばなければ、私達日本人は、それに気づくことすらありません。 しかし、それなくしては、日本人は決して、台湾人の方々の心境を理解することはできず、その先にしか、日台の真の友好もありません。 私達が「本当の日本人」として目覚めることもできないでしょう。 これほどまでに日本を思ってくれ、尽くしてくれた方々に、こんな思いを抱かせたまま放置してしまっている今の日本人を、果たして日本人と呼べるのでしょうか。 私は、芝山巌で唐さんから、戦後、日本へ戻った日本人に対して、「家庭ならお父さんが事業に失敗して、我が子を捨てたのと一緒」という言葉を直接聞いた時、李登輝元総統から「台湾は日本に片思いをしている」という言葉を直接聞いた時、胸が痛くて締め付けられそうになりました。 しかし、私はその経験ができただけよかったと思っています。 今、戦後72年が経過し、日本統治時代を直接経験している世代の方々が高齢となり、亡くなってしまわれる方も多くなっています。 実際、すでにご紹介した「世界一の愛日家」蔡焜燦氏も亡くなってしまわれましたし、先ほどご紹介した唐さんは認知症が進み、もう話を聞くことができません。友愛グループの方々も、いつまで直接お話が聞けるかは分かりません。 このことが意味することは何か。 歴史の生き証人であるこの方々から、真実の言葉を聞けなくなるばかりか、これほどまでに日本を思ってくれ、尽くしてくれた方々に、「台湾は日本に片思いをしている」「日本に棄てられた」と思われたまま、感謝の言葉を伝えることさえできないまま終わってしまうということです。 私は、日本人として、そんな不義理の中に生きることに我慢できません。 台湾を訪れなければ、この日台の歴史を知らなければ、そんな不義理の中に生きているという自覚さえ、ありませんでした。 ぜひともに、台湾に、本来の日本を学びに行きましょう。 そして、台湾にいる「元日本人」の方々に、直接感謝の言葉を伝え、恩返しをしましょう。 台湾の方々の本当の思いに触れ、その過去に寄り添い、これからずっと共にあることを誓いましょう。 その経験が、必ずや、あなたの人生と、日本のこれからの未来を変えていくと信じています。 ご一緒できるのを心より楽しみにしています。
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